小川栄太郎先生を今さら偲んで



 2023年4月、以前から読まなければと思っていた故小川栄太郎氏の「明日の医術に生きる」を読んだ。

 小川氏は岡田茂吉メシヤ様に教会長の任を授けられ、一生を奉仕に尽くした方で101歳で御帰幽なされた。
メシヤ様の側近中の側近である渋井総三郎氏や高弟の中島武彦氏と比較して長寿を保った訳だが、重大な役目を負う方々と比較するのもどうかと思うが、 死ぬ程の大浄化を食らった故の長寿そしてその体験は、信仰あって存在するものであり、現代の不健康長寿とは根本的に異なるわけである。
また、彼は奉仕をする側面医療師としての信念が人一倍強く、メシヤ様にも意を介さず質問する姿勢、そして信仰を含め様々なものを客観視する分析力に秀でていると本を読みながら思ったのである。


 氏に会ったのは2009年であり、友人に付き添われて当時は誰かも分からなかったので特に期待せずに熱海咲見町講演会に行ったが、 当時九十幾歳にしてハキハキした口調や、話の内容よりも語調が滑らかな事の方に耳が行ってしまった。
内容は質疑応答含め、メシヤ様御在世当時の体験も含まれており、講演後は行ってよかったなぁと思っていたのだが、 その後数年後に購入した小川栄太郎氏著「明日の医術に生きる」の本を数年間放置しっぱなしだったので読んでみると、かなり壮絶かつ衝撃的な内容であった。

 なぜ今まで放置していたかと言うと、講演会の時間が2時間と短かったのもあるが、半分が質疑応答に費やされ、 そこまで内容の濃いものではなかったからであったが、本の内容に関しては、当期(昭和前期)を背景に戦争の災禍を含めた 生々しいまでの信仰の念がリアルタイムで描出されており、詠嘆せざるを得なかったからである。
また、この本を読む数か月前から足の浄化に悩まされており、「たまたま」行った皮膚科へのレビューに「ベルトコンベア式診療」等 滾々と湧き出る悪評を書いたのであるが、その直後に読んだ本著にメシヤ様の施術の卓越さと能率の良さを間近で垣間見た著者からの 「ベルトコンベア」の言葉が「それ」とは180度違う意味で記載されており、西洋医学と浄霊の優越さの違いを見せつけられたのである。


「 「ありがとうございました」を言う時には、もう次の人が座布団のところに来ています。御礼の言葉に大先生が 『ん』と仰り、そしてもう次の人にご治療をされるのです。その方も終わると「ありがとうございました」と申し上げ、 やはり次の人が来ているという具合です。ちょうどベルトコンベアーみたいなものです。非常に手早く能率的なのです。 それと大先生が(私に)ご治療をしてくださって(略)大先生が『おかしい』と仰ったのです。そして『どうだ』と聞かれて 「はっ、治りました」とお答えすると『いつごろ治った』と聞かれますので「大分前に治りました」と正直に申し上げました。 そうしたら大先生はものすごく怒られました。『なぜそれを早く言わないのか』と。(略)そんなこともありました。」


 病院での列を作って待っている時、足を引きずりながら歩いている子供や3人の美麗なブロンドの外国人親子を見ながら、看護師その他の異様なほどのロボット的雰囲気に、 メシヤ様が唄った『この病院の患者残らず治したしと思ひつ長き廊下をゆくも』と同様の心境を感じつつも、隣に座った子供にも何も言えないという苦行を味わうと、 読んでいなかった本書も読みたくなる心境に至ったのである。

 そしてその中でも特に色んな意味で衝撃だったのは、昭和20年群馬県に遠征講習の際爆撃機が何十機も迫ってくる中、メシヤ様に拝受頂いた爆弾用御書が威光を放ち 惨禍を免れたという話があったが、内容はこうです。


「(略)ちょうどその時、私はお風呂に入っていました。すぐに出て、2階の観音像を掛けた部屋に駆け上がり、 かねて持参の「爆弾よけの「光明」」を観音様の上に掛け、大先生にお願いしました。
(略)大先生はこれを掛けることで「2万メートルの上空まで光の柱が立つ」「これらのご書体は神兵器である」と仰っていました。

(略)もうすでに敵機襲来の音、ゴーッという轟音が聞こえてきます。祝詞をあげ終わって、早速外へ出て見ると、 大きな飛行機が編隊を組んで近づいてくるのが分かりました。数えると十機一編隊で、合計120機でした。 その音たるや大変なものです。それが見る見るうちに近づいてくるのです。
照明弾が落とされて、あたり一面、昼間のように明るくなり、飛行機の銀翼が鮮明に見上げられました。
飛行機から銀色にピカピカっと光る焼夷弾がヒュー、ヒューという音をたてながら落ちてきては、街のあちらこちらに火の手が上がっていきました。

(略)その私が”よし、お浄めしよう”と決意したのです。(略)梯子を駆け上がっていきました。
先ず低い屋根に上がり、そこからまた梯子をかけて、屋根の一番上に上がりました。そして敵の飛行機に向かって手をかざし、お浄めをしたのです。
すると、飛行機から爆弾がドンドン落ちてくるのですが、その爆弾が地上50メートルくらいまで真っ直ぐ落ちてきて、 30メートルくらいになるとスーッと横に飛んでいくではありませんか。私は本当に驚きました。私の手からというよりも、大先生の意念のこもる 「爆弾よけの「光明」」から光が出ていたのです。(略)爆弾がすべて、スーッとそれていくのです。それは凄いものでした。

(略)あちらこちらも火の海になっていきました。5メートル離れた隣の家も、10メートル離れた前の家も、もう渦を巻いて燃えていました。
火によって強烈な風、火風が起きて、雨戸だろうが障子戸だろうが襖だろうが、飛んで行ってしまう有様でした。
私の腕時計は革がめくれ上がって飛んで行き、腰掛けていた状態のまま靴も飛んで行きました。
(略)靴から腕時計から、全部、熱風で木の葉のように飛んで行ってなくなってしまいました。

(略)あの恐ろしい一夜が明けて、翌朝、町を見渡すと数キロ四方に渡って建物らしきものはただの一つもありません。
家なども一軒も残っておらず、(略)Mさんの家(小川氏のいた)一軒だけが残ったのです。
しかも驚いたことに私のすぐ前、Mさんの家を取り囲むように爆弾が27個、土の中にめり込んでいました。」


 というドラゴンボールのような超物理的な内容には流石に苦笑いしてしまったのだが、その後の生々しい死者の凄惨な表現に言葉を失ったと同時に、 十数年前の小川氏の素朴で誠実そうな人柄から、とても嘘をついたり誇張をするような人とは思えず、ただ唖然としてしまったのである。

 明けて昭和21年、ご面会後生死を彷徨うほどの大浄化(全身硬直し顔唇が黒くなり睾丸が頭大に腫れ上がる)が起きた際、メシヤ様から数十日にも渡って 施術を受け一命を取り留めた話があるが、


「一回の浄霊でちり紙が山のようになりました。睾丸に手をかざされると、睾丸に溜まっている毒素が抜けて、肺から痰になって出るのです。
シュークリームのような痰です。(略)それを数えきれないほど繰り返しました。その痰が、しばらくすると真っ黒になるのです。いかに猛毒であったかということです。
(略)出た痰の量、小水の量、驚くべき量でした。痰だけでも2、3斗(約36L~54L)は出たのではないかと思っています。」



 加えて、この小川氏の大浄化の記録は本著に一部始終詳細に描かれているが、その後の
『小川さんはね、(略)まだ軽いんですよ』の言葉を受け、 一同慄然としたそうだが、私もこの言葉を今まさに起こっている最後の審判を乗り越えるための信念として胸に刻みたいと思ったのだった。

 もっと早く読めばよかったと後悔はしたが、この大浄化の最中に読めてよかったとも思う。
彼が他の専従者と比べて長寿を保ったのも、このような奇跡があってこそ揺るぎない信念を得たからであろうが、 その奇跡の背景には、「奇跡を分析する」いわゆるメシヤ様の言われる「神を解剖する」探究心があってこそなのだろうと思うのである。
そして解剖するだけではなく、実行に移し、人にも伝えるという率直さと実直さは並みの信仰では顕れないと思うのである。


 本著では、最後に自己浄霊の大事さを特に重要事項として説いているのだが、この道の人間でも深く考えていない重点事項がこの文にある。


「それは、肩をよく浄霊する(略)肩を浄霊すれば心臓が良くなる、そして肺が良くなり、肺がまた胃を動かす(略) 肩が柔らかくなると、心臓と肺と胃の働きが良くなるのです。火、水、土を吸収する機関が良くなるのです。肩は健康のバロメーター、急所なのです。」


 これを知っているのと知っていないのとでは、信仰の大小以前に重大なのである。
頭で理解しても自覚ができていない信仰では、この大浄化時代を生き抜くのは生易しくないのである。


 一度改名した名前を、メシヤ様に『ええだろう、えいたろう』と言われ戻された「栄太郎」という名前は、そのまま彼の栄光に満ちた生涯に現れているのだろうと思う。
昭和21年大浄化の際、『小川って男は殺せないんだ』とメシヤ様から最も重く用いられた人に、無意識ながらも講演会の御縁を許された事は今更ながら光栄の極みだと思う。



「私は、世界最高の方にお目にかかり、世界最高の方にご浄霊をいただく光栄にあずかりました。今も世界最高の方のご守護のもとに日々、つつがなく暮らしています。」