◎それから御神書とか、新聞などを読ませますが、
あれはただ書いてある意味が分かる以外に、活字から浄霊されることになるのです。
それは言霊の作用で、言霊が神意に合ってますと、その活字からやはり一種の光が出るのです。
これは微妙なもので、私が書いた文章はそれがどんな木版でも活版でも、やはりそれを通じて光が出る。
だからそれを読ませるということは、その意味を覚るばかりでなく、そういう効果があるのです。
◎私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。
ではどういう訳かというとすべては文章を通じてかく人の想念がそのまま映るものであるからで、この点充分知らねばならないのである。
これを霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、
この意味において私がかく文章は神意そのままであるから、その人の霊は浄まるのである。
このように読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格がいかに大きな影響を及ぼすかはもちろんである。
◎私がいろんな本を出してますが、興味本位からでもなんでも読めば、それから浄霊されるわけです。
それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。
とにかく私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。
べつに私が印刷したものでなくても、誰がしたものでもそうです。
◎浄霊は外からで御神書を読むと、つまり魂ですね。
魂はなんでもないんだが、曇らせると、魂に影響するんです。
これは魂が眠っているとか、曇っているとか ・・・外形の影響によって、これだけがこれ(縮小)だけになる。
御神書を読むと、アッと目覚める。
だから中心から曇りが取れていく。
魂というものは、心(しん)の心は絶対に清いんです。
何かの状態で、悪人でも目が覚めたり、いよいよというときに良いことをしたり、人の性・・・性善説、性悪説とあるが・・・ごく中心はそうなんです。
◎ところがそうとうに話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、
入っていながら、それに
合ってゆかない想念でやってもらうと、その時は治りが悪いのです。
うまくゆかないのです。
そういうことに対してチャンと合理的の理屈があるのです。
だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それからそうとうに信じている人で治りが悪いということがありますが、それはそういうわけです。
ぜんぜん知らない人はいくら疑ぐっても、それはあたりまえのことで許されるのです。
理屈に合っているのです。
ところがそうとう事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。
そういうことをよく考えてみると、チャンと理屈に合っているわけです。