栄養の喜劇
栄養の喜劇とは随分変な題と思うであろう。私もこんな言葉を用いたくはないが外に適当な言葉を見出せないから読者は諒されたいのである。 抑々今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何物でもないのである。此の誤まれる栄養学が有害無益の存在であるに関わらず、最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行われているのであるから、それに要する労力や費額の尨大なる事は実に惜みても余りあると思うのである。私が此のような大胆不敵にして狂人とも見られそうな理論を発表するというのは、今日の現状に対し到底黙止する事は出来ないからで、以下出来るだけ詳細に書いてみよう。 今日の栄養剤として先ず王座を占めているビタミンA、B、Cを初め、アミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとし多種多様なものがあるが、之等を服用又は注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが持続的効果はないのである。而もその効果たるや結局は逆効果となるのであるから栄養剤を持続すればする程人体は衰弱が増すのである。之は如何なる訳かというと、抑々人間が食物を摂取するという事は、人間の生命を持続させ生活力を発揮させるためである事は今更説明の要はない。此の点の解釈が今日の学理はあまりに実際と喰違っているのである。 偖て人間が食物を摂るとする、先ず歯で噛み食道を通じて胃中に入り次で腸に下り、不要分は糞尿となって排泄されるのである。此の過程を経る迄に肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等凡ゆる栄養機能の活動によって血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等々一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出分布し、端倪すべからざる活動によって生活の営みが行われるのである。実に神秘幽玄なる造化の妙は到底言葉には表わせないのである。之がありのままの自然の姿である。 右の如く人間が生を営むために要する栄養素は総ゆる食物に含まれており、食物の種類が千差万別多種である事はそれぞれ必要な栄養素の資料となるからであると共に、人により時により嗜好が異ったり要求が同一でないのは体内の必要によるからである。例えば腹が減れば飯を食う、喉が涸くから水が飲みたい、甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、辛いものを欲する時は塩分不足のためである。という訳で人間自然の要求がよく其の理を語っている。何よりも人間が要求するものは必ず美味いという事によっても明らかである。故に薬と称して食いたくもないまずい物を我慢して食うことなどは如何に間違っているかが判るのである。昔から「良薬は口ににがし」等という事は大変な誤りで、にがいという事は毒だから口へ入れるべきものでないと造物主が示しているのである。 此の理によって美味である程栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚であるからである。新鮮なる程魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、時間の経つに従い味わいが減るという事は霊気が発散するからである。 茲で栄養剤に就て説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在に恰度よい量だけ生産されるのである。つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は必要だけのビタミンを生産するのである。此の様に食物中から栄養素を生産するというその活動の過程こそ即ち人間の生活力である。早く言えば未完成物質を完成させるその過程に外ならないのである。 此の理によって栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は活動の余地がないから、自然退化する。栄養機能が退化する以上、連帯責任者である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化する事になるのである。之について二三の例を挙げてみよう。 以前アメリカで流行されたフレッチャーズム喫食法という食事法があった。之は出来るだけよく噛み食物のネットりする程よいとされている。之を私は一ヶ月厳重に実行したのである。処が漸次体力が弱り力が思うように出なくなったので驚いてやめ、平常通りにした処体力も恢復したのであった。そこでよく噛むという事が如何に間違っているかを知ったのである。それは如何なる訳かというと、歯の方でよく咀嚼するから胃の活動の余地がないという訳であるからすべて食物は半噛み位がよいのである。故に昔から早飯、早糞の人は健康だと謂われるが、此の点現代文化人よりも昔人の方が進歩していた訳である。 又消化薬を服むと胃の活動が鈍るから胃は弱化するから又消化薬を服む、又弱化するという訳で、胃病の原因は胃薬服用にある事は間違いない事実である。慢性胃腸病患者が消化の良いものを喰べつつ治らなかった際、偶々香の物で茶漬など食い治ったという例はよく聞く処である。 前述の如く未完成食物を喰い、完全栄養素に変化させるその活動こそ人間生活力である、という事を機械製造工場に例えてみよう。 最初工場に原料資材を搬入するとする。工場は石炭を焚き機械を動かし、職工が活動し、漸次完成した機械が作られる。その過程が工場としての存在理由である。之を反対に完成した機械を工場に搬入するとすれば工場は労作の必要がないから石炭も焚かず機械も動かさず職工も必要がないと言う訳で工場は閉鎖するより仕方がない。 以上の如く私は出来るだけ判り易く説明したつもりであるが、此の理によって考えれば、栄養剤という何等の味もない物に多額の金銭を費し、反って身体を弱らせるというのであるから喜劇というより評しようがないであろう。之が珍表題を付けた所以である。 |