病気とは何ぞや

 

   序論(略)にもある通り、現在米国に於ける病気の漸増は何が為であるかを其根本から説いてみるが、先ず病気なるものの発生原因であるが、驚く勿れ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤が其中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとする其方法が、反対に病気を治さないようにし増やしているという、到底信じられない程の迷盲である。そうして之は説明の要のない程明かであるに拘わらず、それに気が附かないのであるから、全く世紀の謎といってもよかろう。それ処か益々医学に信頼し、之を進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。では其様な不可解な原因は何処にあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気を以て悪い意味に解釈しているからである。それを之から徹底的に解説してみよう。

  本来人間なるものは、生れ乍らにして例外なく先天性毒素と後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生れてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、よい薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、其を医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。故に若し薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならない筈であるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か之程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上只の一つもないのであって、悉く毒物であり毒だから効くのである。それはどういう意味かというと薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。

  では薬が何故毒物であるかというと、抑々人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を作ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。即ち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、之だけを考えても造物主の周到なるは分かる筈である。此意味に於て生きんが為に食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、恰度生殖と同様子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。

  右の如く人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上含まれている栄養分だけは吸収されるが、他は体内に残って了う。之が薬毒であって、而も厄介な事には之が各局部に集溜し、時の経つにつれて固結して了う。其集溜個所としては神経を使う処に限られている。神経を使う処といえば、勿論上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、其処を目掛けて毒素は集中せんとし、一旦首の周りに固結する。如何なる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。之が凝りであって、或る程度に達するや自然排泄作用即ち浄化作用が発生する。其場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、濁尿等になって排除されようとする。之を名附けて感冒というのである。

  故に感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され体内は清浄化し治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、大いに感謝すべきであるに拘わらず、それを知らない人間は、此浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、之を止めるべく考え出したものが医療であるから、如何に間違っているかが分かるであろう。そうして此浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程発り易いので、之を停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして、水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等々な形にして浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして少しづつ服ませる。此為一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。

  此様に薬毒を以て溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間が如何に有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などと喧しく言ったり、感冒を恐れるのも其為である。又人間の寿命にしても六十余歳となったと喜んでいるが、之も大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死の為で、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。

  右の如く医療とは病を治すものではなく一時的苦痛緩和手段で、其為の絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。其中で一二異うのは灸点と温熱療法であるが、之も一時的熱の刺激によって、其個所へ毒素を誘導させるので、楽にはなるが時間が経てば元通りになるから何にもならないし、又ラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、之も癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊して了うから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。

  以上の如く現在迄の療法という療法は徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみて明らかである。而も固め方法の内最も有効なのが薬であり、其薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く悪化するのは当然である。其結果遂に生命の危険に迄及ぶのである。其に就いて斯ういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、其反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞く処である。又衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞く処である。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はないなどというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、此点大いに味わうべきである。

 


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